第34回【行軍篇(2)】遭遇戦と安全確保――行軍の具体ノウハウ

『孫子の兵法』第九篇「行軍篇」

はじめに

行軍篇は、『孫子』のなかでも実際の移動と野営、補給に密着した章として位置づけられます。形・勢・虚実・軍争で学んだ理論を、どのように行軍という“動き”のなかで活かすか――そこに行軍篇の狙いがあります。前回は“先に偵察し、敵情や地形を把握する”必要を見ましたが、今回はさらに踏み込んで、行軍中に遭遇しがちなトラブルや安全確保の方法を読解していきましょう。


1. 行軍篇 原文(後半:省略なし)

以下、宋・明系統の通行本をベースとした行軍篇の後半部分を、句読点・改行を施しながら掲載します。バージョンによって若干文の差異がある点はご了承ください。

孫子曰:

凡行軍:
占有利地,背山面陽,前沖後固;
左高右下,以伏制敵。

見丘陵林木,必察其後;見塹障沮澤,必察其內。
敵若蔵伏,不可不防。

宿營安寧,先定營陣;出入有序,不可亂。

村人歸,知其樂;村人去,知其害。
而取其用,而不傷其財,此行軍之德也。

能察風向、聲氣、鳥獸之驚,則可知敵之近遠。
能視塵埃之高下、部隊之深淺,則知敵眾寡。

是謂:先備,而後戰;先察,而後動。
行軍之法,不可不察也。


2. 現代語訳

孫子が言う:

「およそ行軍に際しては、

  • 有利な地を占拠し、背後に山を背負って前方が開け、後方がしっかり固められるように配置する
  • 左を高所、右を低所として敵を見下ろせるようにし、伏兵を用いて相手を制御する

丘陵や林地を見たら必ずその裏側を、溝壑(塹)や沼沢(沮澤)を見たらその内側を調べ、
もし敵が伏兵を隠しているかもしれない場合には決して油断しないこと。

宿営するときは、まず陣形を安定させ、出入りにも秩序を設け、混乱を起こさないようにする。

村の人々が家に戻ってくるようならば、そこは(我が軍に)好意的または安全である可能性が高い。
村人が逃げ出すならば、危険や敵の接近があるかもしれない。
だが、現地の物資を取る際も、民を傷つけたり財産を荒らすことなく行えば、これが行軍の“徳”である。

風向や物音、鳥獣が驚く様子を観察すれば、敵の近い遠いを知ることができる。
塵埃の高さや量を見れば、敵軍が多いか少ないかも推測できる。

つまり、まず備えてから戦い、まず偵察してから動くべし。
行軍の法則を確認せずに進んではならないのだ。」


3. 解説

(1) 背山面陽・前沖後固

  • 背山面陽: 山を背にし、陽光を受けやすい向きに部隊を配置 → 目や兵士の体力維持に利
  • 前沖後固: 前方は開けていて動きやすく、後方は守りやすい地形を意識
    これは軍争篇で説かれた「先に要衝を押さえる」考えと共通しており、行軍中の宿営地選定に直結する知識といえます。

(2) 左高右下で伏兵活用

  • 敵が来る方向を予測し、高所を押さえておけば伏兵を配置して相手を翻弄できる
  • 形篇・勢篇の論と絡むと、守るときは地形を最大限味方につけ、攻めるときに一気に勢いをつけられる布陣が理想

(3) 林や塹・沮澤の偵察

  • 林の奥沼地の中に伏兵が潜んでいないかを警戒 → 軍争篇でも「伏兵や奇襲を恐れ、入る前に偵察」していた話の具体版
  • 虚実篇の“敵を誘う or 遠ざける”概念が地形選択にも反映される

(4) 村人の動向で民心を読む

  • 「村人が帰ってくるなら安全、逃げ出すなら危険」 → 人々の自然な反応を見ることで、敵の接近や危険を察知
  • 同時に、「民衆の物資を奪いすぎず、被害を最小化すること」が孫子の“徳” → 作戦篇での「因糧於敵」と同様、乱暴な略奪は味方に反感を買うリスク大

(5) 自然現象や塵埃から敵情を推測

  • 風向・音・鳥獣の驚き → 敵の接近を知る手がかり
  • 塵埃の高さ・量 → 敵軍の規模を推測
    これは軍争篇や用間篇(最終の用間篇でスパイの話)とも通じる偵察術。行軍中でもこうした細かい観察で柔軟に判断すべきだと説く。

4. 行軍篇の実務性と他篇との連動

  1. 計篇・作戦篇・軍争篇との交差
    • 行軍前に計篇の分析→どこを攻めるか決定
    • 作戦篇で補給や短期戦の構想→軍争篇で先手を取る要衝確保
    • 行軍篇では“具体的なルート選択・偵察・宿営”のやり方を示す
  2. 虚実×形勢×行軍
    • 虚実篇で誘導したい場所へ敵を引き込み、行軍篇で自軍が安全に進む
    • 形篇・勢篇で整えた守りと爆発力を、地形を巧みに使って発揮

5. 現代への応用ヒント

  1. プロジェクト:事前リサーチとステークホルダー対策
    • “先偵察山林”: 市場や競合の分析、社内障壁の洗い出し
    • “村人の動向”: 社員や顧客の声をこまめに拾い、異変を察知
    • 突発的なトラブル(伏兵)を未然に防ぐ
  2. 都市マーケティング:エリア戦略
    • “背山面陽”ならぬ、地理的優位を探して拠点を設置 → 交通の利便性や安定補給を確保
    • 地元住民(村人)が離れるor 戻る → 顧客や地域の支持を観察する指標
  3. リーダーシップ:混乱を避ける宿営管理
    • “宿營安寧,先定營陣” → チーム体制の初期設定を丁寧に行い、秩序を保つ
    • 民衆(社員・関係者)に被害を与えず、協力を得られるように配慮 → 組織の支持が高まる

6. まとめ

【行軍篇(2)】として、行軍篇後半を省略なしで紹介し、行軍中の安全確保・宿営・地形偵察・民心観察など、より細やかな兵法の実務面を確認しました。

  • 地形選択: 背山面陽、前沖後固、左高右下
  • 偵察: 林・沼・塹の裏を確認、伏兵を警戒
  • 民心: 村人の動向で安全度を推測、過度な略奪は避ける
  • 自然観察: 風向・音・塵埃・鳥獣の反応から敵情を読み取る

これらの要素を組み合わせ、“まず備え、まず察し、その後に動く” という孫子の慎重な戦い方が再度強調されます。次回【第35回】は、行軍篇を総括しながら、次の「地形篇」への繋がりを整理します。行軍で活かす“先手と安全の両立”が、地形篇の細分化された地形分析でさらに豊かに展開されるので、どうぞお楽しみに。


あとがき

  • 軍争篇と行軍篇
    軍争篇が“先手必勝”を理論的に語るのに対し、行軍篇は具体的なルート、地形、民心、偵察などの実務的指針を提供。いずれも「動き」の章として相互補完関係にある。
  • 一歩先の地形篇
    行軍篇で“偵察しろ”“地形を確認しろ”と言われた内容が、地形篇でさらに六種類の地形分析(通・挂・支・隘・険・遠)として深掘りされる予定。
  • 本質は情報と秩序
    行軍篇には、敵情や地形情報を精密に収集し、混乱なく進軍する秩序が必須だと示される。これは、計篇でいう“多算勝”や虚実篇でいう“騙し合い”を実務で支える基盤と言える。

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