はじめに
形篇は『孫子』が説く戦術理論のなかでも、「不敗の態勢を作る」→「敵にとって敗北しやすい状況を逃さない」 という2段構えの重要性を強調する章です。
前回は、形篇冒頭で「善守者は地の底に隠れ、善攻者は天の上から攻める」という比喩を介して、守備・攻撃の理想形を概観しました。今回【形篇(2)】では、形篇の残り部分(後半)を通じて、いかに「形」を整え、相手が形を崩すタイミングを見逃さないかをさらに深く学びます。
形篇 原文(省略なし:後半)
以下は、宋・明系統の通行本を参照した形篇後半の文章を、句読点と改行を付して掲載しています。バージョンによって字句の異同がある場合がありますのでご承知おきください。
孫子曰:
故善戰者,能為不可勝,不能使敵必可勝。
故曰:勝可知,而不可強為。不可勝在己,可勝在敵。
守則不足,攻則有餘。善守者,藏於九地之下;善攻者,動於九天之上;
故能自保而全勝也。勢者,因形而措勝也;形者,因勢而立不敗。
故形篇既立,勢篇亦興。
先制其形,而後乘其勢;
先立於不敗,而後求敵之敗。是謂善用形者也。
(訳注:最後の2行は、いわゆる形篇から勢篇への橋渡しを示す文で、バージョンによっては勢篇の冒頭に含まれることもあります。)
2. 現代語訳
孫子が言う:
「だから、戦いの上手い者は、自軍を“負けない状態”にすることはできても、敵を“必ず負ける状態”にまでは作れない。
だから言うのだ――勝つことは先に見通せても、強引にそれを作り出すことはできないと。“負けない”ことは自分の準備次第だが、“勝ちを掴む”かどうかは敵の動向にかかっている。
守備に回れば少し不足があるとしても、攻勢に移れば余力がある。守りの巧みな者は、まるで地の底に身を隠すように弱点を見せないし、攻めの巧みな者は天上から突如として降りてくるがごとく主導権を握る。
だからこそ、自分を保ちつつ、相手に勝利を押し付けることができるのだ。“勢”とは、形に基づいて勝利を据えるものであり、“形”とは、勢を活かすことで不敗を確立するものである。
それゆえ、形篇が立てば勢篇にも繋がる。
先に“形”を制してから、“勢”を乗ずるのだ。
まず不敗を確実にし、そこから敵の敗北を誘う。これこそ、形を巧みに用いる者のやり方だ。」
3. 解説
(1) 「能為不可勝,不能使敵必可勝」
形篇における“守り”の本質を示す言葉です。
- 自軍が負けない態勢(不可勝)を作ることは、こちらの準備や配置による
- しかし、敵を必ず負けさせる(可勝)状態は、敵軍の状況やミスなど敵自身の要素に左右される
ここに、自分がコントロールできる範囲とコントロールできない範囲を明確に区別する孫子の合理的思考が表れています。
(2) 「不可勝在己,可勝在敵」
“負けない”かどうかは自分の責任・努力次第。しかし“勝てるかどうか”は、相手の状況や乱れ、弱点に依拠する――という視点です。
- まず自軍が不敗の形を作る → 簡単には崩されない安全策
- 相手の失態や破綻の兆しが出たら、一気に攻める
この順序こそが「勝兵先勝而後求戰」から続く形篇の要旨と言えます。
(3) 「守則不足,攻則有餘」
- 守備に専念すると手が足りないと感じるかもしれないが、攻撃に移ると必要以上に強くなる
- これは「強固な守り(不敗)」を作ったうえで、隙を突けば少ない兵力でも大きな効果を得られる、という孫子独特の発想です。
- 現代的に言えば、安全マージンを確保しておけば、リスクが低い状態で大胆な攻勢に出られるということ。
(4) 「勢者,因形而措勝;形者,因勢而立不敗」
ここで初めて形篇と勢篇の関連が明確に示されます。
- 形:守り・配置の仕組み→「不敗の地」を先につくる
- 勢:勢い・エネルギーを増大させる→攻撃時の爆発力
相互に影響し合い、形が勢を支え、勢が形を高める流れが次の「勢篇」へと続くわけです。
4. 守りと攻めのバランス――形から勢へ
(1) 形篇での“守り”重視
形篇では「善守者…」という表現が何度も登場し、自分の弱点を隠しながら相手の攻撃を空振りにさせる守りを強調します。
- 失点をなくす → 長期的に見れば大きなアドバンテージ
- 勝ちを焦らず、相手が自滅するチャンスを待つ
(2) しかし、ただの守備論に非ず
同時に「攻則有餘」とあるように、不敗の形を固めたあとには、攻撃が十分に活きると孫子は見ています。守りが堅ければ、攻めに出るリスクが減り、メリハリの効いた進軍が可能。
形篇の最後に「勢」への布石が示されるのは、この守→攻の連動をより具体的に説明するためと言えます。
(3) “勢”への伏線
最後の部分で「勢者,因形而措勝…」「先制其形,而後乘其勢」という流れから、**次の勢篇(第五篇)**で「奇正」「リズム」「エネルギー集中」などの概念が出てくる予告がされます。
- まず形篇で“形”を整え、不利にならない状況を先に作る
- 次に勢篇で“勢”を展開して圧倒的な攻勢を実現し、最小限の消耗で勝利を掴む
5. 現代への応用ヒント
- 企業の防御体制と成長戦略
- 守り: 資金繰りやリスク管理、知財保護などで「不敗の地」を作る
- 攻め: 安全マージンがある状態で新市場へ進出すると、失敗しても致命傷になりにくい
- プロジェクト管理:リスク先取りと大胆な勝負
- 形篇的アプローチ: 先にテストや検証を行い、失敗要素を潰しておく → 本番で大きく勝負できる
- 形を固める=準備・検証 → 勢で爆発力を出す=一気に製品発表やマーケティングを集中する
- “不敗”をどう確立するか
- 『孫子』が度々述べるように、負けない仕組み(財務の安定性・顧客基盤・差別化)を先につくることで、ライバルとの正面衝突も落ち着いて対処できる
- 下手に脆弱な状態で挑むと、攻めの途中で崩壊するリスクが高い
6. まとめ
【形篇(2)】として、形篇の後半部分を読み解き、
- 守備を万全にして相手を待つ → 「能為不可勝」
- 攻勢に移るのは相手の動向次第 → 「不能使敵必可勝」
- 形と勢の相互関係 → 守りの形を固めることで、次の勢篇へと攻勢の可能性が広がる
といった要点が見えてきました。形篇は、孫子兵法全体における**“不敗の理論”**を体系化した章と言っても過言ではありません。そしてこの形があるからこそ、勢篇で語られる攻撃の「勢」を存分に発揮できるのです。
次回【第21回】からは、いよいよ勢篇に入り、“奇正”“勢いの作り方”“圧倒的な攻勢”などの孫子が提案する戦術を学んでいきます。形篇と勢篇が組み合わされば、孫子の言う「先に不敗を作り、あとは勢いで勝つ」理想像がさらに鮮明になるでしょう。どうぞご期待ください。
あとがき
- “不敗”と“可勝”の関係
形篇で何度も指摘されるように、負けないことは自分の準備次第だが、勝利そのものは敵の隙に依る部分が大きい――この思想は、計篇や謀攻篇でも繰り返された“戦前の分析”+“相手の状況を読む”態度に共通します。 - 組織運営での応用
内部ガバナンスやリスクマネジメント(形)をしっかり整えていれば、競合との争いでも“勢”を活かして主導権を握りやすいという話は、現代企業にもそのまま当てはまるでしょう。 - 次への発展――勢篇
勝利を確定づけるのは“勢”の妙だ、と孫子は言います。形篇で築いた安定した土台があってこそ、勢篇における大胆な攻守の変化が光るのです。ぜひお楽しみに。
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