はじめに
形篇が強調する「不敗の態勢」を先に作るアプローチに対し、勢篇は、いかに“勢”を生かして勝利を決定づけるかを論じる章です。孫子兵法のなかでも、勢篇は「奇と正(きとせい)」や「勢いの加速度」という概念を通じて、攻守の切り替えや兵力集中の妙を示します。
本稿【勢篇(1)】では、勢篇の冒頭部分を省略なしで掲載し、まず「勢とは何か?」という定義を中心に見ていきましょう。形篇で築いた“守りの形”が、どう攻撃の勢いに転化されるのか、そのカギがここにあります。
勢篇 原文(省略なし)冒頭
以下は宋・明系統の通行本をもとにした勢篇の冒頭部分です。バージョンによって字句や段落区切りに差がありますが、ここでは比較的通行している形を採用しています。
孫子曰:
凡勢者,因形而生也;形既立,而勢自成。
兵者,假借於勢;正合,奇勝。
體不益多,力不益盛,能使重如投卵者,勢也。
是故善戰者,其勢險,其節短;勢如張弩,節如機發。
故激水之疾,至於漂石者,勢也;
鷙鳥之擊,至於毀折者,節也。識勢者,不先鬥而先勝,
善用奇正者,變化無窮。
現代語訳
孫子が言う:
「そもそも“勢”とは、形(けい)によって生まれるものである。形(態勢)がしっかりと確立すれば、自然と勢いは生まれるのだ。
軍というものは、勢いを借りて戦う。正(せい=正攻法)を合わせ、奇(き=奇策)で勝つ。
兵士の数が増えたわけでもないのに、力が強まったわけでもないのに、あたかも卵を投げつけるように圧倒することができる――これこそが“勢”のなせるわざだ。
よって、戦いの上手い者は、その勢いが険しく、動きの節目(タイミング)は短い。勢いは弩(ど)の弦を張りきった状態のようで、攻撃の瞬間は弦が弾けるように発動する。
激しい流れが岩をも流すのは“勢”によるものであり、猛禽(もうきん)の一撃で獲物を砕くのは“節”によるものだ。
この勢いを見極める者は、実際に戦う前からすでに勝っている。
そして、奇と正を巧みに使う者は、その変化が尽きることがないのだ。」
解説
(1) 「勢者,因形而生」
勢い(勢)は、「形」つまり不敗の態勢や軍の配置があってこそ生まれる、と孫子は言います。
- 形篇で築いた守備の安定があり、攻撃に転じる際にはその安定基盤が**“勢”**を生む
- 勢は一朝一夕で作れるものではなく、形を整備する段階から準備される
(2) 「正合,奇勝」
孫子兵法では有名な「奇正(きせい)」の概念があります。
- 正(せい): 正攻法、定石となる戦術、前面の威圧など
- 奇(き): 想定外の奇策・裏をかく行動
大枠として正面を押さえつつ、奇策で勝利を得るというやり方が、勢を活かすうえでも重要となります。
(3) 「體不益多,力不益盛,而能使重如投卵者,勢也」
人数や装備が劇的に増えたわけではないのに、圧倒的な力を発揮できるのが“勢”の威力、と孫子は言います。まるで卵を投げつけるように相手を砕く――これは一気呵成に攻撃を集中し、相手を吹き飛ばすイメージです。
- 孫子の狙い:“勢”をうまく操作すれば、少数精鋭でも大軍を動かしているかのような効果を出せる
(4) 「勢如張弩,節如機發」
- 勢: 張り詰めた弩のように、常に圧力が蓄積された状態
- 節: 発射の瞬間、引き金(機)を弾くように短く鋭いタイミング
要するに、普段は攻撃力を蓄えておき、攻める瞬間には爆発力を発揮する。守りを重視する形篇の流れを受け継ぎつつ、攻撃に転じる際の破壊力を最大化するのが勢篇の着眼点です。
(5) 「激水之疾,至於漂石者,勢也;鷙鳥之擊…」
激流が岩石をも巻き込むのは勢のたとえであり、猛禽の一撃で獲物を粉砕するのは節(タイミング)の例として引かれます。
- 大きな力がぐわっと集中して相手を押し流す(勢)
- 一瞬のスピードと的確な急所への攻撃(節)
形から勢へ――“勢”を作り出す手順
(1) 不敗の形篇で守りを確立
- “負けない状況”を先に作る
- 失点を最小化し、相手の出方を待つ
(2) 相手が隙を見せた瞬間、一気に“勢”を爆発
- 正面に対処しつつ、奇策を用いて決定打を与える
- 張り詰めた弦(守備の安定感)を解放し、攻撃に移る
- 少数でも圧倒できるエネルギー集中を実現する
(3) 結果的に相手を飲み込む「形×勢」の相乗効果
- 孫子兵法の流れで言えば、先に形(不敗)を整える → 勢篇で攻撃の勢を操る → 実際に相手に止めを刺す流れ
- これに奇正を組み合わせれば、相手は防御の体制を作る間もなく崩れやすい
現代への応用ヒント
- プロジェクトでの“勢”作り
- 周到な準備やリスク対策(形篇)により、プロジェクトが安定しているときに、マーケティングや宣伝に一気にリソースを投入して勢いを生む
- 総力集中→成果を一瞬で拡大というやり方は、勢篇的な発想と言える
- 組織マネジメント:蓄積と爆発
- 社内で人材育成やチームワークを固め(形)、あるタイミングで新製品リリースや大型キャンペーン(勢)に一気に集中
- 普段は表に出ない力を、勝負所で一気に弾けさせる→競合を圧倒
- 奇正のバランス
- 正攻法(正): 定番手法や強みを前面に
- 奇策(奇): 新奇な取り組みや想定外の技術で差別化
- 形(基盤)の上に“正”があり、そこへ“奇”を重ねて瞬発的にリードを奪う――これは孫子兵法の強みを現代ビジネスでも活かすモデル
まとめ
【勢篇(1)】として、勢篇冒頭を省略なしで紹介し、勢とは何かを中心に考察しました。形篇の「不敗の態勢」を踏まえて、攻め時には大きなエネルギーを爆発させる――これこそ孫子の言う“勢”の本質です。
次回【第22回】は、勢篇の後半部分を引き続き読み解き、「奇正」や「リズム」といった概念をさらに詳しく深掘りします。形篇で固めた守備をベースに、勢篇でどう攻勢へ転化し、最小リスクで最大効果を狙うか。『孫子』流の“勢いの作り方”をいよいよ本格的に学んでいきましょう。
あとがき
- 形と勢の接続
前回までの形篇が守備や不敗を主眼に置いたのに対し、勢篇は、いわば**“攻撃における圧倒的加速”**を論じる章。両方あって初めて“先に不敗を作り、敵の弱点を一撃で突く”兵法が完成します。 - “張り弩の勢”“猛禽の節”
勢篇には豊富な比喩が登場し、兵力が増えたわけでもないのに大きな破壊力を発揮するイメージが繰り返されます。これは企業や組織においても、戦略的集中と機敏なタイミングが競合を圧倒する秘訣になることを示唆します。 - 次への発展
勢篇の後半では、奇正の応用や具体的な攻守の転換法が語られます。形篇同様、勢篇も二回ほどに分けて解説予定なので、次回も引き続きお楽しみに。
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