第2回【序章(2)】孫武という人物――史実と伝説

序章

はじめに

『孫子』の著者と伝えられる「孫武(そんぶ)」は、中国春秋時代の呉王・闔閭(こうりょ)に仕えた将軍とされています。しかし、現代ではその実像が議論の的となることもしばしば。文献上の孫武像は伝説的要素が色濃いため、史実かどうかを判断するには資料が乏しいのです。

今回の記事では、(1) 孫武に関する古代史料の内容、(2) 孫武をめぐる有名なエピソード(いわゆる「斬姫の話」)、そして(3) 孫子の成り立ちに関する諸説といった観点から、孫武の人物像に迫ります。


孫武の記録:『史記』の記述

春秋戦国時代からは数世紀後、前漢の司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、「孫子吳起列傳(そんしごきれつでん)」という章があります。そこに孫武(孫子)と、戦国時代の名将・呉起(ごき)が併せて取り上げられているのです。以下はそのごく一部を引用し、あわせて現代語訳を付します。

原文(抄録)

《史記・孫子吳起列傳》より
孫武者,齊人也。以兵法見於呉王闔閭。
闔閭曰:「子之十三篇,吾盡観之矣。能行之乎?」
孫武曰:「可試使女。」

武乃選宮中美女二隊,立二姫為隊長,而令之操戈戟,豫戒之曰:「左右前後,彼令即聽,不可忽也。」

武乃召剝其二姫之首以徇。

呉王闔閭乃自惕然,遂以孫子為將。

現代語訳(概要)

『史記』「孫子・呉起列伝」より意訳
孫武は斉の出身である。彼の兵法を聞きつけた呉王・闔閭は「あなたの書いた十三篇をひと通り拝見した。実際に試してみることはできるかね?」と尋ねた。孫武は「では、宮廷の女官らを使って試してみましょう」と答えた。
孫武は美女たちを二隊に分け、それぞれの隊長に王の寵愛する側室(姫)を任命し、武器を持たせて演習を命じた。孫武は「『左右』『前後』などの号令をかければ、必ずそれに従わねばならぬ」と厳命する。
ところが、美女たちは孫武の命令を遊び半分に聞き流し、まるで聞いていない様子だった。孫武は「命令を伝えた上で従わないのは、隊長の責任」として、隊長役の姫二人を斬首して見せしめにする。
王が慌てて「私の最愛の姫たちを殺すとは何事か!」と怒るが、孫武は「命令が明確なのに従わないなら、将としては処断するしかない」と応じ、軍律を貫いた。その結果、残りの美女たちは恐れ敬い、全員が厳格に号令に従うようになった。
これを見た呉王は、孫武の実行力を認め、彼を正式に将軍として迎えたという。


有名な逸話「斬姫(ざんき)の話」の示唆

この物語は「孫子の兵法」と言えばよく引き合いに出される有名なエピソードです。特に注目されるのは、「命令が正しく伝わっていないなら将の責任、正しく伝達されているのに従わないなら隊長の責任」 という点。孫武は、王の寵姫でも容赦なく軍律を適用しました。

  1. 厳格な軍規
    軍の秩序を保つためには、どれほど地位や愛顧を受けている者であっても特別扱いしない。これは現代の企業ガバナンスやマネジメントにも通じる面があります。
  2. 命令伝達の重要性
    伝え方が悪ければ部下は従いにくい。指示の明確さはリーダーの責任であることを、孫武は毅然たる行動で示しました。

とはいえ、この話には「孫武の苛烈さ」を強調する意図や、史記編纂時の脚色も含まれている可能性が高いといわれます。真にこのようなことが行われたかどうかは定かではありませんが、少なくとも「軍隊組織とは如何にあるべきか」を象徴的に描いた逸話として有名です。


孫武が本当に存在したのか? 諸説

前述のとおり、孫武という人物像については史料が極めて限られています。そのため、後世の研究者の間では以下のような諸説が唱えられてきました。

  1. 実在の軍略家説
    『史記』の記述を基本的に受け入れ、孫武という卓越した軍略家が呉王に仕え、『孫子』十三篇を編纂したというもの。
  2. 複数の著者による編集説
    春秋時代から戦国時代にかけて形成された複数の兵法書が、後に「孫子」の名でまとめられた。したがって、孫武は象徴的な著者名であり、実像はあいまいという見方。
  3. 後世の仮託説
    もっと後の時代、例えば戦国中期や秦・漢の時代に書かれた兵法書を、古い時代の孫武に仮託したのではないかという説もあります。

いずれにしても、『孫子』は当時の兵法思想を極めて体系的にまとめた書物であり、どのような過程を経て生まれたにせよ、その内容の鋭さ・普遍性は疑いない事実です。


『孫子』と孫武の位置づけ

(1) 春秋時代の呉国と孫武

呉王・闔閭がいた時代(紀元前6世紀後半~5世紀初頭)は、呉が一大強国へと成長し、宿敵の楚や越と激しく対立していた時代です。もし孫武がその軍略を活かしたとすれば、呉の兵力伸長に大きく寄与したことは間違いないでしょう。

(2) 後世の評価と兵法の祖

その後、孫武は兵家の始祖と仰がれるようになり、戦国期から漢代、さらには唐代・宋代に至るまで、歴代の名将・帝王に繰り返し参照されました。古代中国だけでなく、日本や朝鮮半島、さらには近現代の欧米諸国の軍事関係者にも多大な影響を与えています。

(3) 孫武を超えた『孫子』の魅力

歴史の闇に埋もれ、実像のはっきりしない「孫武」ですが、『孫子』自体の説く兵法論・戦略論が普遍的な価値を持つことは明白です。あくまで著者は伝説の将軍であり、後世に「孫子」と呼ばれた英知の集積が、この書物を時代を超えたクラシックに押し上げたとも言えます。


まとめ

第2回では「孫武という人物」について、歴史的背景や史記で語られる逸話を中心に見てきました。厳格な軍律を敷いた将軍像、あるいは複数著者の総称としての「孫子」など、様々な見方ができます。いずれにせよ『孫子』という兵法書が、軍事・戦略思想の深奥を切り開いた古典であることは揺るぎません。

次回(第3回【序章(3)】)では、さらに『孫子』という兵法書がどのような特徴を持ち、後の時代や世界各地にどう受容されてきたのかを掘り下げていきます。古代中国の情勢と併せて、『孫子』の魅力を俯瞰してみましょう。

あとがき

  • 「史記」は絶対ではない
    司馬遷は「太史公」として膨大な歴史資料をまとめましたが、同時に物語性をもって伝記を描くこともあったとされています。『孫子吳起列傳』も、そのまま史実と見るには注意が必要です。
  • エピソードの寓話的側面
    「斬姫の話」は孫武の冷徹な覚悟を象徴する物語ですが、同時に、リーダーシップ論として広く引用される寓話的な側面もあります。「部下に責任を問う前に、まず命令の明確化を」という教訓は現代にも生きるでしょう。
  • 今後の連載について
    次回以降はいよいよ、『孫子』各篇の構成や内容のアウトラインに迫ります。各篇のキーワードを整理したうえで、その後は「計篇」から順次、具体的な原文と訳文を対照しながら解説します。

これから本番ともいえる内容に踏み込む前に、ぜひこの時点で「孫子の著者像」に関する疑問などを振り返ってみてください。「著者が誰であろうと、この書物の中身が重要だ」という立場と、「著者の人格や背景を知ることでより深い理解が得られる」という立場、両方とも興味深い視点があるはずです。

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