第10回【計篇(5)】「兵は詭道なり」の本質

『孫子の兵法』第一篇「計篇」

はじめに

これまで4回にわたり、『孫子』の計篇を原文とあわせて丁寧に読み解いてきました。すでに本文そのものは前回までですべて紹介を終えていますが、計篇にはまだまだ考察しうる論点が残されています。

今回の【計篇(5)】では、とくに「兵は詭道なり」のフレーズを再度ピックアップし、詭道(きどう)が持つ本質や、実際に組織やビジネスで応用するときの注意点を深く掘り下げます。単なる「だまし合い」というイメージにとどまらない、孫子が説く詭道の広がりと奥行きを見ていきましょう。


「兵は詭道なり」の真意

(1) 正面突破だけが戦いではない

「兵は詭道なり」の名文句は、「戦争とは、相手をだます手段である」と訳されることが多いです。しかしそれは、単に「卑劣な謀略を推奨する」という意味ではありません。むしろ、

  1. 正攻法や力押しでの大消耗を避ける
  2. 相手の虚を突き、最小のコストで最大の効果を狙う

という発想があり、結果的に味方の被害も相手の被害も抑える効果をもたらすことすらあるのです。

(2) 詭道と「勝可知,而不可為」の関係

計篇では、「勝利の条件さえ整っていれば、相手に戦意をなくさせたり、あえて戦わずして勝つこともできる」と繰り返し説かれています。詭道は、相手の認知や判断力を操作して“勝てない状況”へ追い込む作戦そのものと言えます。

  • 大軍を用意して圧倒的に見せる(実際にはそこまで多くない)
  • 同盟関係を工作して相手を孤立させる
  • 有利な地形に相手を誘導して包囲する

こうした「形を整える」プロセスの一部に、詭道的な誘導が組み込まれるわけです。

(3) 卑劣さと人道性の微妙なバランス

たとえ「だまし合い」であっても、長期的・大局的に見れば、大規模な激突を回避し、無益な流血を減らす可能性もあります。孫子がめざすのは「戦わずして勝つ」こと。

  • そのための方便として“詭道”がある
  • 単なる「嘘・騙し」ではなく、緻密な情報戦・心理戦で相手を屈服させる

これこそが「詭道」の真髄と言えるのです。


計篇に見る詭道の具体的戦術例

(1) 「能而示之不能,用而示之不用」

  • 能力があっても、それを隠して弱く見せる
  • 実際には行動しているのに、行動していないよう装う

これは相手を油断や混乱に誘う古典的な手段です。ビジネスでいえば、実際には技術開発が進んでいるのに、わざと進捗を公表しないなどが一例でしょう。競合が安心している隙に準備を整え、出し抜く作戦です。

(2) 「近而示之遠,遠而示之近」

  • 地理的には近いのに、遠く感じさせる
  • 実際には距離があるのに、すぐそばにいると思わせる

現代戦でいえば、部隊位置をレーダーや偽装電波で惑わす電子戦などが当てはまりそうです。ビジネスでもリリース予定日をフェイントとして異なる時期を示唆し、競合のタイミングを外させる、といった応用が考えられます。

(3) 「怒而撓之,卑而驕之」

  • 相手が怒っていれば、それをさらに煽って冷静さを失わせる
  • 相手が謙虚・卑下していれば、逆に増長させて自滅を誘う

リーダーや将軍が冷静さを失うと、組織全体の判断が乱れるのは古今東西変わりません。ビジネス交渉でも、こちらが挑発的に振る舞って相手を感情的にさせ、交渉条件で譲歩を誘うなど、詭道的テクニックが用いられることがあります。


詭道における「心理戦」要素

(1) 敵将の性格分析

詭道を成功させるうえで欠かせないのが、相手の性格や行動パターンを見抜くこと。計篇では「将がどういう人間か」を把握する重要性が随所で語られます。

  • 高慢であれば、そこをくすぐって失敗を誘う
  • 臆病であれば、さらに圧力をかけて萎縮させる

(2) ストレスや焦りを意図的に与える

「佚(いつ)を勞(ろう)にする」とは、相手がのんびり気楽にしているときほど、突発的な行動を起こして疲弊させることを指します。

  • 夜間襲撃やかく乱行為を繰り返し、相手の睡眠や兵站を妨害
  • ビジネスで言えば、相手の営業時間外に情報公開し、対応を強制する

こうした連続的なストレスを与える手法も詭道の一部です。


“詭道”を使う際のリスクと注意点

(1) 過度の欺瞞は信用を失う

計篇には「信」や「仁」が強調されている一方で、「兵は詭道なり」とも言われます。この相反するように見える要素をどう両立させるかが難所です。

  • 味方や民衆に対しては「信」を守る
  • 敵に対しては心理戦で翻弄する

バランスを誤れば、内外問わず信用を失い、自軍が崩壊しかねません。特に平時の企業活動で、過度に虚偽の情報を流せば、顧客や取引先の信頼を失う危険があります。

(2) 情報の誤認・勘違いのリスク

騙し合いを仕掛けるには、相手の情報を正確につかんでいる ことが前提です。見誤った場合、こちらが仕掛けたフェイントに自分自身が引っかかる、といった最悪の結果を招くかもしれません。

  • 計篇では「多算勝」として事前分析を徹底せよ、と言いますが、それには正確な情報収集能力が欠かせない。
  • もし情報が不十分ならば、無理に詭道を仕掛けるのではなく、状況を待つ慎重さも必要です。

計篇から得られる示唆:詭道と共存するリーダーシップ

(1) 厳と仁の両立

孫子が挙げる五つの将の資質「智・信・仁・勇・厳」には、**「仁」と「厳」**という一見相反する要素があります。

  • 部下への思いやりを持ちつつも、規律を守らせる厳しさが必要
  • 組織の士気を高めながらも、必要に応じて詭道を使う非情さを演じる

リーダーは、この相反するように見える要素をバランスよく使い分ける覚悟が求められるわけです。

(2) 「自軍を欺かず、敵を欺く」はどう可能か

計篇では、味方同士には「信」に基づく連携を強調しながら、敵に対しては巧みに偽装や誘導を行う――というスタンスを徹底します。
現代の組織管理においても、内部では情報共有を徹底して結束を固め、外部との競争では差別化やフェイントを織り交ぜる、という二面性を担うリーダー像が映し出されているのです。


現代への応用ヒント

  1. マーケティングでの心理戦
    • 競合の商品発表スケジュールに合わせて、あえて違う時期にフェイク情報を流し、相手の判断を狂わせる例は少なくありません。
    • ただし、顧客に不利な“嘘”をつくと信用が破綻する恐れがあるため、あくまで“対競合”を対象とした戦略と割り切る必要があります。
  2. 交渉・ディベートでの詭道
    • 相手を怒らせて冷静さを失わせる(逆にくすぐって増長させる)など、感情面の誘導が交渉結果に影響するのは周知の事実。
    • “相手を負かす”ことが目的であれば有効ですが、長期的パートナーシップが必要な関係では使いすぎに注意が必要。
  3. 経営者の姿勢
    • 一般社員や部下には誠実に接するが、業界競合に対しては手の内をすべて公開しない。
    • これを“二枚舌”と見るか、“戦略的思考”と見るかは状況次第。いずれにせよリーダーには、正面突破以外のオプションを検討する冷静さが不可欠だといえます。

まとめ

今回【計篇(5)】では、「兵は詭道なり」という言葉の真意を改めて深く掘り下げ、実際の戦術例や心理戦との結びつきを考察しました。『孫子』が説く詭道は、狡猾さや卑劣さだけを称揚するものではなく、戦いや競争での無益な消耗を減らし、効率的に勝利を収めるための手段としての意味合いを持ちます。

次回はいよいよ、計篇の最終まとめに入る予定です。これまで5回にわたって学んだ計篇のエッセンスを振り返りながら、【計篇(6)】として総括し、次篇「作戦篇」への布石としたいと思います。ぜひお楽しみに。


あとがき

  • 詭道=手段に限定されない
    計篇で列挙された手法はあくまで一部の例示です。実際には、地形・気候・外交などあらゆる要素が絡み合う総合的戦略の中で、どれだけ柔軟に詭道を組み合わせるかが肝となります。
  • 卑怯vs.人道
    詭道は相手を欺くものの、無用な流血を避けられるなら、それを「人道的」とみなす解釈もあります。孫子の思想には、表面の“だます”というイメージ以上に奥行きがあることを改めて感じます。

以上、「第10回【計篇(5)】」の内容でした。次回【計篇(6)】にて、計篇全体の総括と次の「作戦篇」への展望を示していきますので、どうぞお楽しみに。

コメント

タイトルとURLをコピーしました