はじめに
前回【計篇(3)】までで、『孫子』計篇の原文をすべて省略なしで読破し、“五事・七計”や“詭道”の概念、さらには「勝可知,而不可為」という核心フレーズまで押さえました。
ここまでのポイントを振り返ると、「戦う前にすでに勝利を決める(あるいは負けを回避する)」 という徹底した事前分析・準備の発想が、計篇の要といえるでしょう。
今回は、その分析や準備のなかでも特に重要な「情勢の把握」と「情報の活用」について、計篇の内容を再整理しながら掘り下げていきます。
計篇における“情報”の位置づけ
(1) 五事・七計と情報
- 五事:道・天・地・将・法
- 七計:敵味方を比較検討するための七つの観点
いずれも、**「自軍の状態」「敵軍の状態」「自然条件(天候・地形)」**などを正確に知ることが大前提です。情報が不足していれば、いくら理論があっても空回りしてしまいます。
(2) 未戦にして勝つ“廟算”(びょうさん)
計篇で繰り返し強調される「廟算」とは、実際に兵を動かす前の段階で行う周到な作戦立案です。
- ここで必要なのは、客観的な情報収集と多角的な分析。
- 感情や希望的観測ではなく、相手の兵力・将軍の資質・国力・同盟関係などを丹念に調べ、勝つための筋道を立てることが求められます。
(3) “人皆知我所能,而莫知吾所不能”の意味
前回までに出てきたこのフレーズ(「人は私の得意分野だけを知り、弱点は知らない」)には、「自軍の情報は都合のいい部分だけ見せ、弱点は隠す」 という情報戦の発想が詰まっています。
つまり、こちらが積極的に自分を偽装・宣伝する側面もあれば、同時に相手の実態を探り当てる偵察・諜報も必要になるということです。
具体的な「情勢分析」のステップ
(1) 自軍の内情を把握する
- 道:民心・兵士の士気、上層部との一致団結
- 将:指揮官(リーダー)の能力や性格
- 法:軍律・組織体制・物資補給の仕組み
これらは自軍側の「変えられる要素」でもあります。情報を集めるだけでなく、不足や問題点が見つかれば修正・改善できるのがポイントです。
(2) 外部要因(天・地・敵情)を調べる
- 天:季節・天候・時間帯など、自然条件
- 地:地形・ルート・補給路・地勢の有利不利
- 敵情:相手軍の規模、士気、将軍の性格、物資量、外交関係
これらは自軍が直接コントロールしにくい要素です。そのかわり、うまく噛み合えば**「勢(せい)」**を得る大きな後押しになります。
(3) 多算勝――数値化・比較検討の発想
計篇では、五事・七計の要素を「比較校量(校之以計)」せよと説いています。現代的に言えば、「可能な範囲で定量化・数値化し、メリット・デメリットを洗い出す」 作業に相当するでしょう。
- 競合他社とのシェア比較
- コストとリターンの試算
- 損益分岐点の見極め
こうしたビジネス上のアナリティクスに通じる考え方が、すでに孫子の計篇には含まれているのです。
情報源の確保と秘密保持
(1) 用間篇への橋渡し
計篇では十分な分析を求めていますが、具体的にどうやって正確な情報を得るか までは詳しく語りません。そこは最終章の「用間篇」でスパイ(間者)の使い方が述べられるところです。
- ここでのポイント:計篇が示す「情報分析」は、のちに「用間篇」で語られる“間者の運用”とセットで完成する仕組み。
(2) 機密保持
また、計篇冒頭から「兵は詭道なり」として、自軍の動きを敵に知られないようにする重要性が説かれます。
- 情勢分析をしていても、それが敵に漏れれば対策を打たれる。
- 計画段階(廟算)をできるだけ秘密裏に進める必要がある。
- 同時に、時には逆情報を流して敵の判断を狂わせる「詭道」も効果的。
計篇が示す“情報と分析”の本質
(1) 勝利を“事前に仕込む”思想
計篇全体を通じて、孫子が何度も繰り返すのは**「戦いを始める前に勝敗はほぼ決まっている」**というドライな見方です。これは、事前準備を怠ったまま現場の“勢い”や“奇襲”だけでどうにかするのではなく、分析に基づいて確実に勝てる状況を整えてから動くということ。
(2) 戦略的な引き算――やらない戦いもある
情報分析の結果、「勝てない」「リスクが高すぎる」 と判明した場合は、無理に戦わず回避や撤退を選ぶのも立派な戦略だと示唆されています。
- 現代でも、事業撤退やプロジェクト休止が必要な場合があり、そこに迷いがあると更なる損失を招くことになります。
- 計篇の教えは、勝てる確信を得られないならば動かないという“決断”の重要性を改めて強調するものです。
(3) リーダーシップと組織力
計篇で「道」「将」「法」が何度も強調されるのは、自軍内部の結束・リーダーシップ・組織運営こそが、戦いに勝つための基盤だという考え方が背景にあります。
情報戦をいかに上手く回せるかは、こうした内部体制(人材・指揮系統・軍紀)がしっかり整っているかに大きく左右されるのです。
現代への応用ヒント
- 企業・組織での意思決定
- 新規事業を検討するとき、①内部資源(人材・資金)②市場・競合(外部環境)③組織運営体制を総合的に評価し、多角的に「勝ち筋」を描くのは計篇の方法論と同じ。
- 情報収集の手法
- 現代ではマーケットリサーチ、ビッグデータ解析、顧客アンケートなど多様な方法があるが、本質は「敵情・環境」を正確に把握し、優位なシナリオを描くこと。
- フェイク情報と競合撹乱
- わざとカモフラージュした商品スペックを事前告知したり、発売時期をぼかす手法など、意図的に相手の分析を狂わせるマーケティングは“詭道”の一種。
- ただし過剰な“駆け引き”は信用を損ねかねないため、計篇で言う「信」「仁」とのバランスも大事。
まとめ
【計篇(4)】として、「情勢を掴む――情報と分析」という視点から計篇のエッセンスを再整理しました。計篇の原文自体は前回までで全て読み終わりましたが、孫子が説く事前分析・情報戦・組織の基盤構築は、いまなおビジネスや政治、組織運営全般に応用しうる普遍的な考え方と言えます。
次回【第10回(計篇(5))】では、「兵は詭道なり」の続きをより深めつつ、“騙し合い”の本質をもう一段階突き詰めたいと思います。孫子が描く詭道は、決して小手先の欺瞞だけではなく、大局を制するための総合的な戦略として重要です。そのあたりを詳しく見ていきましょう。
あとがき
- すでに計篇本文は終了
「計篇」の原文は「吾以此觀之,勝負見矣。」で閉じられます。次の章は「作戦篇」です。しかし、1篇のなかにも多くの示唆が詰まっているため、本連載では複数回に分けて解説・応用例を取り上げています。 - “詭道”と情報の両輪
詭道(騙し合い)を成功させるには、“正しい情報を握る”ことが不可欠です。相手の状況を誤認していれば逆効果になりかねません。計篇と用間篇(スパイ活用)は一体の流れであると理解すると、より深みが増すでしょう。
以上が、第9回【計篇(4)】の全体構成となります。次回も、計篇のテーマをさらに別の角度から掘り下げていきますので、ぜひご期待ください。
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