第7回【計篇(2)】智・信・仁・勇・厳――将に求められる資質

『孫子の兵法』第一篇「計篇」

はじめに

前回【計篇(1)】では、兵法の根幹となる「五事」「七計」の重要性や、「兵は国家の死活問題である」という『孫子』冒頭の宣言を学びました。今回はその続きとして、将(指揮官)に求められる五つの資質や、“兵は詭道なり”という有名な一節を含む本文を省略なしで取り上げつつ、現代語訳と解説を行います。


原文

以下は、計篇中ほどまでの該当箇所を、当連載の方針に沿って句読点・改行を施した形で掲載しています。
(※底本の異同や古注で加筆された行などがあるため、必ずしも全ての版本が同一ではありません。ここでは、主に宋・明系通行本を参考にし、可読性を考慮して句読を付しています。)


孫子曰:

夫將者,智、信、仁、勇、嚴也。
行之以誅罰,而不論其能,則士不親;
不行誅罰,而論其能,則士不服。

兵者,詭道也。
故能而示之不能,用而示之不用,近而示之遠,遠而示之近。
利而誘之,亂而取之,實而備之,強而避之,
怒而撓之,卑而驕之,佚而勞之,親而離之。

攻其無備,出其不意。
此兵家之勝,不可先傳也。


現代語訳

孫子が言う:

「まず将(指揮官)というものは、智・信・仁・勇・厳の五つを備えていなければならない。

しかし、誅罰(ちゅうばつ/処罰)ばかりを行って、部下の能力をきちんと評価しないのであれば、兵士は将に親しみを感じられないだろう。
逆に、誅罰を行わずに能力ばかりを論じるのなら、兵士たちはその処遇に納得できず、不服従の気持ちを抱く。

そもそも兵(戦い)とは“詭道(きどう)”の道である。
だからこそ、有能でありながら無能を装い、実際には兵を動かしながら動かしていないように見せる。
近い場所にいるのに遠いと思わせ、逆に遠いのに近いと感じさせる。
有利な条件で誘い込み、混乱しているところを攻撃し、充実していればこちらも備えを万全にし、相手が強ければ正面衝突を避ける。
敵が怒っているならばさらに揺さぶりをかけ、謙っているようであればかえって増長を誘う。
のんびりしている敵軍には仕事を増やして疲弊させ、味方同士が親しげなところには不信を煽って離反させる。

つまり、敵が備えていないところを攻め、まったく意表を突いて動くのである。
これこそが兵家(軍事家)における勝ち方だが、あらかじめその手段をすべて公にするわけにはいかないのだ。」


解説

1. 将軍の五つの資質――智・信・仁・勇・厳

ここで孫子が列挙する「智・信・仁・勇・厳」とは、優れた指揮官に求められる基本要素です。

  1. 智(ち)
    • 戦況や人心を見抜く洞察力・柔軟な思考力
  2. 信(しん)
    • 誠実さ、約束を守る信用力。部下や民衆の信頼を得る
  3. 仁(じん)
    • 思いやり、情け深さ。兵や民を大切にし、彼らの苦しみに寄り添う
  4. 勇(ゆう)
    • 決断力や実行力。恐れずにリスクをとり、正しい時に断行できる
  5. 厳(げん)
    • 規律を守らせ、公正な罰や統率を行う厳格さ

「行之以誅罰,而不論其能,則士不親;不行誅罰,而論其能,則士不服」の部分は、“処罰ばかりでは部下は心を閉ざすし、処罰がなければ秩序が保てず不公平感が募る” というジレンマを指摘しています。現代の組織管理にも通じる、リーダーシップの難しさを示す箇所といえるでしょう。

2. 「兵者,詭道也」――兵は詭道なり

おそらく『孫子』で最も有名と言ってもよい一節です。“詭道” とは、「詐術」や「欺瞞戦略」などと訳されることが多いですが、単に卑怯というニュアンスではありません。

  • 相手を正面から打ち破るだけが戦いではない
  • 極力、最小の労力や犠牲で勝つために、手段を選ぶ
    という、孫子ならではの合理主義的な兵法観を象徴する言葉です。

3. 敵を誘導し、混乱させる手法

“故能而示之不能,用而示之不用…” から始まる連続フレーズは、実に具体的な誘導・欺瞞の技術を示しています。

  • 能力があっても、わざと無能を演じる
  • 兵を動かしているのに、あたかも動いていないように見せる
  • 敵が強ければ避ける。敵がリラックスしていれば負担を与えて疲弊させる
  • 味方同士が結束していれば、不和の種をまいて離間させる

これらは後の『三国志』や古今東西の戦史で実践例が無数に見られます。戦争において情報をうまくコントロールすることが勝敗を大きく左右する――そのことを、孫子はこのように“詭道”というキーワードで強く意識化しているのです。

4. 「攻其無備,出其不意」――相手が備えていないところを突く

最後の一文で強調されるのは、「絶好のタイミングで不意打ちをかける」という孫子兵法の極意です。相手が想定していない箇所・時機を狙えば、最小限の力で大きな勝利を得られます。
これは何も卑怯なだけの手ではなく、味方の被害を最小化するという点で、長期的に見れば兵士や民衆のためにもなるという考え方でもあります。

5. 「此兵家之勝,不可先傳也」

「こうした勝ち方(奇策)は、あらかじめ世間に公表できるものではない」という当たり前のようで重要な結論です。もし具体的な策略を事前に敵に察知されれば、詭道自体が成立しなくなるからです。
現代の企業戦略や外交でも、「計画をすべて公開すれば、ライバルに対抗策を取られてしまう」 というのは同じ理屈です。場合によっては秘匿や偽装が必要である――それが孫子のリアリズムと言えます。


現代への応用ヒント

  1. リーダーの条件
    • 「智・信・仁・勇・厳」のどれを特に重視するかは組織次第ですが、これら5つの資質のバランスをいかにとるかは現代でも大きなテーマです。
    • また、処罰(懲戒)と評価(褒賞)のバランスをどう設計するかも組織マネジメントの核心部分といえます。
  2. 詭道=戦略的思考
    • ビジネスや外交において、“正面攻撃”ばかりではなく、柔軟に発想転換し、相手を錯覚させるテクニック(価格戦略・情報発信・マーケティング)を駆使することも時に重要。
    • ただし、過度に相手を欺くのではなく、「勝つために相手の心理を読む」 という意味合いで捉えると理解しやすいでしょう。
  3. 不意打ちと機密保持
    • 新商品や新サービスのリリースを突然発表するなど、ライバルの備えを崩すタイミングを狙うのは実際によく行われる手法です。
    • 一方で、情報漏洩が起きると効果が半減してしまう点には注意が必要です。ここでも「不可先傳也」の考え方は顕著に現れます。

まとめ

第7回【計篇(2)】では、“将に求められる資質”“兵は詭道なり” という2つの大きなテーマを、原文を省略せずに取り上げました。戦いを指揮するリーダーには、厳格さと優しさの両立、そして誅罰と評価のバランスが不可欠である一方、戦術面では「相手を欺く・惑わせる」柔軟な発想が求められる――という二重の焦点が見えてきます。

次回の【計篇(3)】では、五事・七計をさらに掘り下げて「勝算」をどのように見抜くのか、より実践的な視点を加えながら解説を進めます。これまで学んだ「詭道」の思想とあわせて、『孫子』の戦略的思考をさらに深く理解していきましょう。


あとがき

詭道=柔軟な戦略
“詭道”は言葉の響きから「だまし討ち」のイメージが先行しますが、『孫子』の狙いは「味方の損害を最小化し、最大の成果を得ること」。正攻法だけでは得られない勝利を得るため、相手の心理や認知を操る高度な戦略と捉えると、より理解が深まるはずです。

処罰と能力評価のバランス
冒頭の「行之以誅罰,而不論其能…」は、現代でもしばしば指摘されるリーダーシップ論の問題を鋭く突いています。どれほど規律を大切にしても、部下の頑張りや成果を公正に評価しなければモチベーションは上がらないし、その逆もまた然り。

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