はじめに
行軍篇は、『孫子』が提示する兵法のなかでも“行軍中の注意点”を扱う実務色の強い章です。ここでは、部隊が移動する際の偵察や地形選択、そして民衆との関係など、多角的な観点が示されます。軍争篇ですでに「先手を取るための行動」「要衝の確保」などを学びましたが、行軍篇ではさらに詳細な手法として展開される形になります。本稿【行軍篇(1)】では、行軍篇の冒頭を省略なしで紹介し、まずは行軍の基本と戦場偵察の意義を見ていきましょう。
1. 行軍篇 原文(省略なし:冒頭部分)
以下、宋・明系統の通行本をベースに、行軍篇の冒頭部分を句読点・改行を施した形で掲載します。バージョンや注釈によっては若干の異同がある点、ご了承ください。
孫子曰:
凡行軍之法:
先察山林、險阻、沮澤、塹邑,然後行之。欲戰者,勿居險地,欲避者,勿攻隘形。
行速而不亂,偵察而不漏,
是以全勝。地形有利有不利,人心有安有煩。
善用兵者,視其所利,以安其眾;
視其所不利,以去其患。先定人情,而後用兵,
先知敵之動,而後制勝。此行軍之略也。
2. 現代語訳
孫子が言う:
「およそ行軍をする際の法は、まず山林や険阻なところ、沼沢地や溝壑の多い地形、城郭(邑)などをしっかり偵察してから進むということだ。
戦いたいならば、あえて険しい地には留まらず、避けたいならば、隘形(狭隘で危険な地形)を無理に攻撃しないこと。
移動を迅速に行っても混乱せず、偵察を綿密に行い漏れがない――だからこそ完全勝利が見えてくる。地形には有利・不利があり、人心(民や兵士の気持ち)も安定している場合と不安定な場合がある。
兵をよく使う者は、まず有利を見極めて部隊を安んじ、不利を見極めて災いを除くのだ。まず民心や人々の意向を把握し、それから軍を動かし、
先に敵の動きを知ってから、勝利を決定づける。これが行軍における略法(基本)である。」
3. 解説
(1) 「先察山林、險阻、沮澤、塹邑,然後行之」
行軍篇の冒頭で、孫子は山林・険阻・沼地・溝壑・城郭など、移動経路や周辺地形を事前に詳しく偵察すべきだと説きます。
- 軍争篇でも「先手を取る」ことの重要性が語られましたが、行軍篇では事前調査と地形把握がより具体的に強調される形
- 偵察の怠りは、補給ルート喪失・伏兵・沼地での遅れなど、致命的ミスを招きかねない
(2) 「欲戰者,勿居險地;欲避者,勿攻隘形」
ここは、軍争篇や九変篇で述べられた「危険な地は避ける」「相手が堅固に備えている場所(実)を無理攻めしない」といった原則を、行軍レベルで再確認している部分。
- 戦いたいからといって無暗に険しい地に入り込むと、敵の攻撃を受けやすい
- 逆に撤退したい(避けたい)場面でも、狭隘な地形を強引に攻める必要はない
孫子の基本方針:「無理な地形攻撃はしない」「不利ならば回避する」が端的に示される。
(3) 「行速而不亂,偵察而不漏」
- 行軍速度を重視しつつも、隊形が乱れず、情報収集を丁寧に行う
- これこそが**“全勝”**につながる → 作戦篇で言う“短期決戦・補給重視”とも連動する考え
- スピードと整然さ、両立が難しいからこそ高い指揮能力が求められる
(4) 「地形有利有不利,人心有安有煩」
- 地形の良し悪しだけでなく、民衆や兵士の心理(人心)の状態(安定 or 不安定)も観察すべき
- 虚実篇や謀攻篇で習ったように、民心や兵士の士気が下がっていれば、どんなに地形が良くても危険
- 要は、行軍前の偵察は地形 + 人心の両面が欠かせないという意味
(5) 「先定人情,而後用兵;先知敵之動,而後制勝」
- 民心・人情(民の意見や兵士の状態)を把握 → 軍の移動がスムーズに行くかどうかに大きく影響
- 敵の動きを事前につかむ → 謀攻篇・虚実篇でも繰り返されたように、“相手を知らねば勝ちきれない”
ここでの強調点は、行軍篇的視点の“いつ移動開始するか・どうルートを選ぶか”に直結するため、事前の情報把握がより緻密になっている。
4. 行軍篇の位置づけ
- 軍争篇との連動
- 軍争篇で先手必勝の必要性を学んだ→ 行軍篇では、どうやって具体的に移動や偵察を行うかが説明される
- 先手を取るために、まず行軍速度や補給線、地形・民心をしっかり見極める
- 地形篇への橋渡し
- 行軍篇の先には、地形篇(第10篇)が控えており、六種類の地形分析がさらに詳細に展開される
- 行軍篇で「偵察」や「人心把握」を重視する姿勢を押さえておくと、地形篇での細分化された地形論が理解しやすい
- 計篇の実務応用
- 計篇で学んだ“五事・七計”の理論を、実際の行軍場面に当てはめる → 事前計画を念入りにし、現場偵察で裏付けを取る
- こうして作戦篇や虚実篇などの誘導・消耗戦回避のやり方を活かす下地が作られる
5. 現代への応用ヒント
- プロジェクト開始前の周辺調査(“偵察”)
- 新市場や新部署でプロジェクトを立ち上げる前に、社内外の環境・人員モラル(人心)・課題を詳細に把握してから動く
- “行速而不亂,偵察而不漏” → スピードと精密さを両立
- 社会調査と利害調整(人心)
- 製品をリリースしたいが、地域住民や規制当局の意向を無視すると反発が起きる
- “先定人情,而後用兵” → 住民への説明や関係者への根回しを先行することで、あとで混乱を起こさない
- リーダーのルート選択(避けるべき問題)
- “險地を避ける” → 成功確率が極端に低い(リターンも不明確)領域には無理に参入しない
- “隘形を攻めず” → コストやリスクばかり高いチャレンジを回避し、戦いやすいマーケットを狙う
6. まとめ
【行軍篇(1)】として、行軍篇の冒頭を省略なしで読解し、まずは行軍の基本原則――偵察・スピード・地形選択・民心把握――を確認しました。要するに、軍を動かす前にあらゆる要素をチェックし、無理のないルートで先手を取りながら、敵や民の動向を先に読んで勝利を手繰り寄せるという孫子兵法の実務面を示している章です。
次回【第34回】は、行軍篇の後半を読み進め、さらに行軍中の具体的なリスク対処や前後左右の安全確保、村落との関係など、詳細なノウハウを掘り下げていきます。九変篇で言及された“多様な状況対応”が、行軍篇でもどのように展開されるかに注目すると、理解がより深まるでしょう。どうぞお楽しみに。
あとがき
- “軍争篇(先手)→行軍篇(偵察)”
軍争篇が先手を取る必要性を強調したのに対し、行軍篇はそのための“偵察と安全確保”を扱う。両者は密接につながっており、計篇・虚実篇の誘導論とも組み合わさると、より全体像が見えやすいです。 - 行軍×補給×人心
兵士が疲労しないルート選択、民心を逆撫でしないコミュニケーション、適切な補給計画が全て噛み合ってこそ、短期戦や“佚”を保った戦略が実行可能。 - 次への期待
行軍篇後半では、さらに実務的な行軍事例や、敵情観察のコツが登場します。形・勢・虚実の概念を思い出しつつ、ご期待ください。
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