「第一の矢・第二の矢」の教え

仏教

「第一の矢・第二の矢」の教えは、パーリ語経典の『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部)第36相応第6経に登場する「サッラッタ(サッラ)経(Sallatha Sutta、別名『矢の経』)」に由来します​。この経典でブッダ(釈尊)は、苦痛に対する弟子と凡夫(仏法を知らない一般人)の違いを説く中で、一つ目の矢と二つ目の矢のたとえを用いています。漢訳では『雑阿含経』巻17第470経「箭経」としても伝わっており​、初期仏教の教えとして両伝統に残っています(大乗仏典そのものではなく、根本仏教の経典に位置づけられます)。

原典のパーリ語本文と和訳: 該当箇所のパーリ語原文では、ブッダが次のように述べています。

Pāli原文:Assutavā, bhikkhave, puthujjano dukkhāya vedanāya phuṭṭho samāno socati kilamati paridevati urattāḷiṃ kandati sammohaṃ āpajjati. So dve vedanā vedayati, kāyikañca, cetasikañca. Seyyathāpi, bhikkhave, purisaṃ sallena vijjheyya; tam enaṃ dutiyena sallena anuvedhaṃ vijjheyya; evaṃ hi so, bhikkhave, puriso dvisallena vedanaṃ vedayati.”​

和訳: 「まだ仏の教えを聞いたことのない人(凡夫)は、苦痛の感覚に触れると嘆き悲しみ、混乱してしまう。ちょうど一本目の矢に射られ、さらに二本目の矢までも受けるようなものだ。一方、仏の教えを聞いた人(聖なる弟子)は、苦痛に触れてもいたずらに嘆き悲しんで混迷することがない。つまり第二の矢を受けないのである​」

この経では、第一の矢が身体的・外的な痛み(苦痛そのもの)を指し、第二の矢が心が生み出す苦しみ(それに対する精神的苦痛)を指しています​。ブッダはラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎で比丘たちに対し、凡夫も弟子も快・不快・不苦不楽の感覚(受)を感じる点は同じだが「何が違うのか?」と問いかけました​。弟子たちが答えられない中、ブッダ自らこの譬えを用いて違いを説かれたのです​。

教えの背景とブッダの意図: ブッダの意図は、人間の苦しみが「感じる痛みそのもの」と「それに対する心の反応」という二段階に分けられることを示し、後者を制御・克服する重要性を説く点にありました​。第一の矢である肉体的苦痛や外的な出来事(病気や怪我、老いなど「避けられない痛み」)は、生きている以上誰にでも避けられません。しかし第二の矢とは、それによって起こる嘆き・怒り・恐れ・執着などの心理的苦痛であり、これは心の持ちようによって避けることができる苦しみだと教えられます​。経典では、凡夫は苦痛に直面すると「悲嘆し、嘆き悲しみ、胸をかきむしって泣き叫び、混乱する(第二の矢)」ため、身体の痛みに加えて心の痛みの二重の苦しみを味わうと説かれます​。例えば凡夫は、快い感覚に対しては貪り(もっと欲しいという渇愛)を生じ、不快な感覚に対しては怒りや恨みを生じ、どちらでもない感覚には無明による迷いを生じます​。これらはまさに「二本目の矢」に相当する煩悩にもとづく二次的な苦しみです。

一方で、仏法を理解した弟子(聖者)は第一の矢は受けても第二の矢を受けません。すなわち苦痛を感じても、それ以上の嘆きや取り乱しが起こらず、心に余計な苦を作り出さないのです​。経典の中でブッダは、「弟子は苦受に触れても嘆き悲しまず、かれは身体的な一つの痛みだけを感じて心の痛みを感じない(第一の矢だけで留まる)」と弟子側のあり方も説いています​。このように心の訓練によって「痛み」は避けられなくとも「苦しみ」は軽減・避免できるというのがこの教えの要点です​。現代でも「痛みは避けられても、苦しみは避けられる」(Pain is inevitable, suffering is optional)という表現で引用されるように、ブッダはこの譬えを通じて心理的苦悩への対処法を示したのです​。

以上のように、「第一の矢・第二の矢」の教えはパーリ語経典の原典(サンユッタ・ニカーヤ36章6経)に明確に記されており、その原文と翻訳からも分かるように、ブッダはこの譬え話を通して苦しみの原因と対処を説きました​。第一の矢たる身体的苦は人生で避けられませんが、第二の矢たる心の苦しみは仏法の実践によって避けることができる――これが釈尊の説かれた趣旨であり、弟子たちに対するメッセージだったのです​。

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